ガクンと体が反応する感覚に、パチリと目を開け天井をぼんやりと見つめた。
真っ暗な空間を確認して、体を横向きに体勢を変えれば布団がガサリとすれる音だけが響いた。
欠伸を噛み殺して瞳を閉じる。
先程まで見ていた夢見の悪さに小さく息を吐いた、春野サクラはただ、起きてしまったことに後悔をした。
「随分と顔色が悪いが大丈夫か?」
朝。
朝食のため顔を顔を合わせた義姉であるテマリが心配そうにサクラに問う。
「はい、大丈夫です。昨日寝つきが悪かっただけで…」
「ん、そうなのか。体調が悪いなら今日は休んでいたらどうだ」
「そうですね……今日はお休みを頂こうかしら」
サクラの台詞にスープを飲んでいたテマリは、静かにカップを置いた。
「我愛羅とテマリには私から伝えよう。サクラ、本当に顔色が悪いぞ」
テマリの心配そうな表情が目に写り、サクラは申し訳ないと何処かぼんやりと考えた。
「……すみません、なんだろう」
この症状はなんだ。ただの精神的なものだろうか。
患者に対しての診断は何十回、何百回と行ってきたものの自分の体の変化には気がつきにくいものなのか。
ガタリと椅子の音を立て立ち上がる。
その瞬間、何故だか視線がグラリと揺れた。
「っ、サクラ!」
ガシャン!
食器がいくつかテーブルから無残に落ちて、割れた。
「サクラ、しっかりしろ! 誰か居ないのか!」
焦ったテマリの声が、遠くで聞こえた気がして、サクラは視界から光を遮断した。
春野サクラという人物の長くない人生の中で、衝撃的だった出来事があったのはもう数年前に遡る。
好きな人が出来て、大切な仲間が出来た。
とても小さな輪の中で、それが永遠に続くのだと子供の頃は思っていた。
それが突如として崩れ落ちたのは、大切な、何よりも大切だと思ってた人が目の前から去った事。
輪の中で一つ大切なものが欠けてしまった。
それを取り戻す事だけを考えて必死に、ただ我武者羅に生きていた。
大切な人達が苦しんでいる時に引き上げるぐらいの力が欲しかった。
守られるだけでなく、守りたかったんだ。
失うものは多かった。だけど守れたものも確かにあった。
大切なものが帰ってきた時に、途端に怖くなった。
失われた欠片がやっと戻ってきた。
それだけで、ただ素直に嬉しかった。
そう、嬉しかった。
ただ、それだけだった。
一体何時からなのだろうか。
大切な、とても大切な想いが浄化されたのは。
愛だの恋だの、そんな感情で言い表せなくなっていたのは。
彼等は今でも大切な仲間だ。
守るべき存在で、隣で共に戦いたい人達だ。
きっとそれは永遠に変わらないものなのだ。
ふわふわと、浮遊する感覚が心地良かった。
その心地良さの中で、自分の中にあるひとつの想いに見て見ぬふりをしている。
−−私は、彼に顔向けできない。
いっその事、彼が自分のことを嫌ってくれたならば。
ただ、罪悪感だけが胸を締め付ける。
彼のことは好き。否、愛している。
大切にされている事を知っている。愛してくれているのを知っている。
だからこそ胸の辺りがモヤモヤするのだ。
私は、逃げたんだ。
あの人達から逃げるように、愛してくれる人のもとに来たのだ。
あの人達と同じ夢を見る事を自ら捨てたのだ。
ぐるぐる、ぐるぐる回る感情。
いつの間にか自分で処理しきれなくなっていた。
ただ、怖かった。
何が怖いか明確に言われたらよく分からないが、ただ怖かった。
結局、どちらも捨てたくなかった。
それだけだ。
額がひやりとする感覚に、ゆっくりと瞳を開ける。
写し出されたのは白い天井。
何処かで見たこと有ると思えば、自分が一日の大半を過ごす病院だと気づくのに時間は掛からなかった。
カサリ。
その音が聞こえた方に視線だけを動かした。
視線の先に居た人物に気がつき、ああ迷惑をかけてしまった。胸の中にその感情しかなかった。
「……我愛羅君」
掠れた声にサクラは少し驚いた。
「目を覚ましたか」
眉間に皺を入れ、手に持っていた書類を簡易テーブルの上に置き風影であり、サクラの夫である我愛羅は背凭れに体重を預け少し溜息を吐いた。
「ごめんなさい、迷惑かけて」
持ち出してもいい書類を此処まで持ってきたのだろう。
ただでさえ多忙な我愛羅に迷惑をかけてしまった。そう思えば眉尻が自然と下がる。
「テマリが、遣いを寄越したから何事かと思えば、倒れたと聞いてな」
天井を見上げながら話す我愛羅に少し疑問に思いサクラは体を起こそうとした。
「サクラ」
真剣な我愛羅の声にサクラは不安になり、小さく「なに?」と返事をした。
「妊娠、三ヶ月だそうだ」
「……え」
目の前に居る人物が何を言っているのか理解できず言葉が出た。
「サクラ、今お前の腹の中に子供が居る」
ドクドクと心臓が早く動き出す。
思わずお腹に手を当てた。
「……赤ちゃん、出来たんだ」
別段不思議なわけではない。
夫婦という関係上子を授かる事もあるというのは理解していたはずだ。
「サクラ」
静かに聞こえる我愛羅の声。
サクラがお腹に当てた手に、我愛羅が上から重ね合わせた。
「怖いか」
「いいえ、怖くない」
我愛羅の問いにサクラは首を振った。
「嬉しい、私……」
大切な人と血を分けた命が、自らの体内に存在するということがこんなに嬉しいと思わなかった。
心臓が震え上がるぐらい歓喜している。
「我愛羅君、好き、好きなの。愛してる」
ぎゅっと我愛羅の手を握り締め、自らの頬に我愛羅の当てた。
「だから私の隣に居て」
はらりと一滴零れ落ちる涙。
それを拭い去ってくれる温かい掌。
サクラは思う。
いつも自分の涙は自分の手、無造作にで拭っていた。
目の前の彼だけが、サクラの涙優しく、を拭ってくれた。
大切なあの人達はいつも現実を見せてくれる。
いつだって甘い夢を見せてくれるのは今、目の前に居る彼だけなのだ。
「俺の子を産んでくれ」
「はい……」
それはまるで、二度目のプロポーズのようだった。
(マタニティーブルーのお話)
夢の続きをくれたのは、あなただけだったよ
拝借
確かに恋だった
26.02.02