何処からか聞こえてくる琴の音。
花魁達が詠い、男達が歓喜の声を上げるのが何処か遠くで聞こえてくる。
薄暗い橙色の明かりに照らされた室内。
隣に居る女とこんなにも近い位置で話した事はあっただろうか。
ここ数年の記憶を探してみたが、思い出せなかった。
「それにしても意外と飲めるのね、我愛羅君って」
「ああ……サクラは飲まないのか」
酌をするだけのサクラに聞く。
「私? 私は師匠に鍛えられたお陰で結構強いわよ」
ニヤリと笑うサクラを見て、サクラの師であり現火影を思い出す。
そう言えば、ザルだという話を聞く。
テマリがぜひとも飲み比べをしてみたいと言っていたのが頭を過ぎる。
「そうか、大変そうだな」
「本当よ、師匠基本はザルなんだけど極偶に酔っ払うときがあるのよ。
もーその時が大変。シズネさんと一緒に次の日ボロボロよ」
笑いながら話すサクラ。
その光景が簡単に想像出来てしまい、思わず口元を緩めた。
ギイと床が軋む音。
それに顔を上げたサクラが障子の奥を見るように少し目を細めた。
「さく……」
サクラ。名を呼ぼうとした瞬間ヒタリと口に柔らかい感触。
体が反転し腹の辺りにほんの少しの重みが掛かる。
「しっ。我愛羅君」
目前にあるのはサクラの顔。
右手で口を押さえられ、鼻先が触れてしまいそうなほどサクラの顔が近かった。
眉間に皺を寄せ瞳は背後を探るように動いている。
翡翠色の瞳ではなく、真っ黒なコンタクトで隠しているのが勿体無いと感じていた。
我愛羅の頬を撫でる掛かる黒い髪の毛。
押し倒されているこの状況は何だ。
まずもって、砂が発動しないのはどういうことだ。
確かに今現在瓢箪を背負っておらず、室内とは言え砂が我愛羅を護らないとは一体どういうことか。
人が触れる事に少なからず恐怖を持っていた我愛羅にとってただ、驚くしかなかった。
「いやぁ、それにしてもアンタさんが来て下さりますとはウチ等も接待しがいがあります」
「なーに。大名様の心遣いでねぇ。刺激のない太夫達に良い夢を見せてあげてやってくれと言われてねぇ」
障子を挟んで聞こえる会話。
我愛羅とサクラはピクリとも動かずにその会話を静かに聞く。
「そう、ですかぁ。あまり無茶はせんといて下さいな。太夫達も人間だからねぇ」
女が少し言いにくそうに客の男に言えば、一際、ギシリと廊下が音を上げた。
「お前に使ってやっても良いんだぜ? 一度使えば病み付きになる。
どんなに名の知れた太夫だろうと、これ一つで一気に昇天さ。もうこれが無いと生きていけない体になっちまう」
障子の奥。
男の影が、案内人の女に近づく。
眉間に皺を寄せたサクラがギリっと歯軋りをし我愛羅の口から掌を離した。
パシリ。
動いたサクラの掌を、今度は我愛羅が掴む。
今にも飛び出していきそうなサクラを、ただ無言で見つめていた。
「冗談だ、冗談。そんな怖い顔をしなさんなって。それで今日の太夫はこの奥かい」
「そこは先客が居るよ。もう一つ隣になるよ」
「へぇ、もう売れちまったのか。此処にはどんな娘が居るんだ」
サクラと我愛羅が居る部屋の事を言っているであろう客の男。
厭らしく笑っていた声色に我愛羅は嫌悪感を覚えた。
「止めておくれよ。大切な客人だ。覗き見るなんて幾らなんでも興をそがれる」
「へいへい、分かりましたよ」
男の足音が動き、隣の部屋に入る気配を確認する。
案内人の女は男が部屋に入った事を確認し、その場を立ち去った。
はぁ、と小さく息を吐くサクラと我愛羅。
落ち着いたのも束の間、隣の部屋から着物の擦れる音と声が聞こえだしてきた。
「どうぞ、よしなに」
「相変わらず綺麗な体してんな。その体でどんだけの男を落としてきたんだ」
「何を仰います。あんさんこそ一体どれだけの花魁達を虜にしてきたんですか」
響くような、水音。
太夫の息を吐く様な声。
「ん……うん、それは何処で買えるん、ああ」
「なんだ、もうこれが効いてきたのか」
隣の部屋の音がリアルに聞こえる。
未だに腹の上に乗ったまま、押し倒されている体制の我愛羅。
サクラの体温が上昇しているのか、それとも自分の体温が上がっているのか。
サクラの手首を握ったままだった我愛羅は、掌にじわりと汗を掻いた。
「ぅう……ああん! っふぁ、これ……!」
「頭がイカレルぐらい気持ちいいだろう。これはな服用すればするだけ気持ちよくなる薬だ。
まー、ちょっと使いすぎれば幻覚が見えちまうかも知れねぇけどな」
グチャグチャと聞こえる音。
ぐっと、拳を握り締めたサクラの顔が紅いのは、決して部屋の明かりが橙に輝いているからではなだろう。
その表情に驚いた我愛羅は手首を握る手に思わず力が篭る。
ビクリと肩が震えるサクラ。
それを見てゾクリと心臓が震えた我愛羅は無意識にもう片方の手を伸ばし、自分の上に乗ったままのサクラの腰に触れた。
「っひぃ! が、我愛羅君……!」
ゆらりと揺れる瞳が不安そうに我愛羅を見た。
その瞳にゾクゾクと震える背中。
幼い頃に、人を殺し自分の存在を確かめたあの高揚感を思い出させる。
サクラの白い手首に、くっきりと痕が残っている事に気が付いていなかった。
「んぁあああ!!」
隣の部屋の太夫の叫ぶような声。
「ひひ、イイ夢を見ろよ」
「あー! あああ!!!!」
一際大きな声が聞こえ、熱を冷ます空気が流れた。
スッと障子が開く音。
ギシギシと聞こえる音が遠ざかっていく。
我愛羅は、ハッと意識を浮上させサクラに触れていた手を離した。
サクラは慌てて立ち上がる。
「ぁ、う……ちょっと行ってくる!」
頬をぐいっと拭ったサクラは慌てて部屋を飛び出す。
しまった。
我愛羅の頭に過ぎる言葉。
触れようと意識したわけではない。
気が付けば触れていた。あわよくばその先を知りたいと思ってしまった。
体を起こし、掌を見つめる。
この手に触れたサクラが柔らかかった。
鼻腔をくすぐる様な香水の香り。
雪のように白い肌と黒い髪が、橙色の灯りに照らされ色っぽいと思ったのは事実。
ぐっと拳を握り締め、息を吐いた。
まさか自分の中にこんな感情があるとは思っても見なかった。
歓楽街を包む騒音だけが耳に付いた。
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