ずるずると部屋の中を這い蹲るような黒い影。
幼い男の子はそれを見て小さく息を呑み、足音を立てぬようにその場を立ち去った。


「あーあ、いいのかい息子に見られちまったよ」
 天井からぶら下がる男が一人。
クツリクツリと肩を揺らして笑う。

「放っておけ……この力さえ手に入ればあいつはもう用済みだ」
「ヒュー、怖いねぇ……アンタに逆らわないほうが身のためだよ」
 もう一度、男は笑う。

「あれは"この男"の子供で俺の子ではない、この地位に上がる為に利用したのみだ」
「へいへい、あの子供も、皇后もその娘も難儀なこった」
「俺に利用されるだけありがたいと思ってもらおう」
 男は口の中が苦くなるのを理解する。

「お前は利用できるから助けてやっただけだ……次の失敗は無いぞ」
「へいへい、わかってますよ。あ、そう言えば俺の他に女二人が居たと思うがどうした」
「役に立つとは思えなかったからその場で殺してやった」

「そうかい、そりゃあ助かった。処分に困ってたんでねぇ。じゃあ俺は娘の方を処理しよう」

 男が取り出した仮面をカポリとはめれば、ピエロの面が口を吊り上げ笑っていた。





 ぜぃぜぃと肩で呼吸を繰り返し、男の子は廊下を走る。
目的の部屋の扉をガンガンと叩き中に居るであろう人物を叫ぶように呼んだ。

「義母上様……! 義母上様……!!」
 目の前の扉が開き、姿を見せたのは砂隠れの暗部。

「どうしました」
「義母上様は、」
 部屋を覗けば聞こえる話し声。義理の母は中に居るのかと思い、男の子が中に立ち入ろうとすれば暗部に止められる。

「ただいま大事な商談中でございます。どうぞ後ほどお話しを」
「だけどっ」
「後ほど、お話しを」

 バタンと無機質に響く扉が閉まる音。
男の子は立ち尽くし床を見るしか出来なかった。


「義姉上様は、ご無事で……」

 今はここにい居ない。砂隠れで保護されている血の繋がらない義理の姉に思いを馳せる。
小さく握り締めた拳が、もう一度扉を叩く事は無かった。



 ***



 カチャリと静かにカップをソーサーの上に置き、にこりと目の前で笑う女性に背筋をピンと伸ばす。

「あの、よかったんですか?」
「ええ、今は貴女との話が最重要です」
 綺麗に身を纏い、髪を結った目の前の皇后こと大名の妻であり姫と呼ばれる少女の母は、人知れずサクラを都に呼び出していた。

「他里の忍である私にですか……?」
「ええ、そうね……でもいずれ砂隠れの忍になるのでしょう」
 疑問でなく断定。
にこりと笑うその顔にサクラは、カッっと頬を染める。

「ぇ、あ……その、」
「ふふ、可愛い人ね。あの風影の心を射止めた女性に興味があったのよ」

 そっとカップに口を付け、紅茶を嗜む皇后にサクラは強くツッコむ事も出来ず、サクラも同じようにカップを手にする。

「あ、美味しい」
「うふふ、そうでしょう。霧隠れから取り寄せた茶葉なのよ」
 優しく笑う皇后にサクラは、こんなに優しく笑うのか。と心の中でポツリと呟く。
その笑顔をあの子に見せればいいのに。
思ったがそれを口にするのは憚られ、喉まで出てきた言葉をゴクリと飲み込む。


「ありがとう」
「え」

 なんに対しての御礼か分からず、顔を上げれば頭を下げる皇后にサクラは心臓が跳ねる。
「あのっ、止めて下さい頭を上げてください」
 他里の、しかもただの上忍に頭を下げる皇后が何処にいるか。
思わず身を乗り出して静止するサクラに顔をあげた皇后は、優しく笑った。

「娘がね、ご迷惑をお掛けしてるんじゃないかと思って」
「そんな……!」

 口元をハンカチで押さえながら、皇后はしめやかに笑う。

「大変でしょう。我儘で甘えん坊で泣き虫で」
「え、いや……」
 はいそうですね。とも言えるはずも無くサクラは言葉を濁すしかない。
少女を冷たく見下ろしていた、氷のように冷たい瞳が忘れられずにいた。

「不思議かしら? 娘の事を話すだなんて」
「そういうわけじゃないんですが……なんというか」
 傍から見ていて母と娘の関係が上手くいってないような気がする。だなんて口が裂けてもいえなかった。

「貴女が言わんとしている事はわかります。傍から見て私はあの子にとっていい母親ではないですもの。
あの子が私を好いていない事などまるわかりですもの」
 にこやかに、穏やかに話す皇后にサクラは、だったら! と思わず声を上げてしまった。

「あの子はいずれこの国を背負って生きていかなければならないのです。あの子の背に何万と言う国民の命が圧し掛かるのです。
護るべきは民の命であって私じゃないわ。女で他国の大名達と渡り歩かなければならぬのならば私の手を取るべきではないのです」

 カチャリ、とカップを置く音が静かに聞こえる。
ゆらりと揺れる紅茶を眺め、サクラは母の姿を思い出す。

「……私には、あなた方のような重責も無ければ、民の命を背負うだなんて使命もありません。
だけどあの子は母の愛を求めてます。皇后様はあの子を……!」

「ええ、愛していますよ」

 笑うその表情には嘘偽りなんて無かった。
ただ、子供を愛する母の表情がそこにはあった。

「だって私がお腹を痛めて産んだ子ですもの」
「だったら何故、」
 嫌われるような事を態々するのか。
サクラの言葉を遮り皇后が応える。

「私が死んでも立ち止まらぬように」
「え……」
「あの子が立ち止まれば国が止まる。国が止まれば民が苦しむ。あの子は前を向いて生きていくしかないのです」
 だから私が死んでも泣いて立ち止まらぬように生きなければならない。

 しゃんと背筋を伸ばしサクラの瞳を真っ直ぐ見抜く皇后に、何も言えなかった。
何が正しくて、何が悪いかだなんて多分それは人それぞれで。
立場が違えば考えも違うなんてことは、理解していたはずなのに。

「すみません、過ぎた事を言いました……」
「いいえ、お気になさらず」
 ふふ、ともう一度笑い紅茶を飲む姿にサクラはどうして。と投げかけた。

「何故、私にだったんですか」
「簡単よ、貴女があの子の"友達"だから」
「友達……!」
 思いも寄らぬ言葉にサクラは瞠目する。

「ええ、初めて友が出来たと喜んでたわ」
「そんな恐れ多い……」
 仮にも他里の大名の娘だ。気軽に友だと言える間柄になどなれるはずも無い。
サクラの考えを手に取るように、友になれないと思ってますか? と皇后は質問する。

「主従関係である事は間違いないわ。だけど私は忍を道具だと思ったことは一度も無いの。
だからあの子にも忍を道具だなんて思って欲しくない。命を掛けて私達を守ってくれる存在なのだから」
 いつもありがとう。

 優しく笑う皇后の言葉に、サクラは何故だか泣きそうになった。
だからこそサクラは理解できなかった。
何故こんなにも他人を思いやるこの人が、自分の娘を悲しませるのかが。

 親になっていないサクラに、親の気持ちなど理解できるはずが無かった。