泪はらはら





 バサリ

 手に持っていた書類を思わずぶちまけた時の我愛羅の表情をサクラは一生忘れないだろうと心の中でそっと思った。


 そよそよと穏やかな風が里を包む季節。
 新たな命の息吹を告げた。

「い……今、なんと言った」
「だから、妊娠してた。三ヶ月目だった……」

 しんとする執務室。
 木の葉との交友関係を繋ぐパイプ役、また医療忍者育成の要役として前線から退いた、
寧ろ前線から退かせたのは他でもない我愛羅。すんなりと前線から退くわけも無く、ひと悶着あったのは言うまでもない。
 そんなサクラと籍を入れ早数年。
 第四次忍界対戦後各里は復興に追われる中、平和条約が結ばれた。
 先の戦争で里の長達それぞれが思う事があったであろう。
 里という枠を通り越して、忍として互いに協力し合った事は幾年かの間は友好関係が続くであろう。

 そんな折に告げられたサクラの言葉。
 籍を入れ、共に暮らし、行為をしている為妊娠の可能性が無いわけではない。
 と言うより、今まで妊娠をしなかったのが不思議なくらいだ。
 我愛羅自身考えていなかったわけではない。
 いつか、サクラが妊娠をするときがあるだろう。
 だがその「いつか」はまだ遠い先の事だと考えていた。

「……どうする、つもりだ」
 正直言って、我愛羅にはまだ覚悟が無かった。
 先の戦争で思わぬところで父と再会し、真意を知ったのは記憶に新しい。
 真意を知ったからと言って幼い頃に植え付けられた記憶が無くなるわけではない。
 徐々にではあるが自分の中で消化出来ている。そんな矢先の出来事。
「正直、産みたい、だけど……」
 サクラは我愛羅から視線を外し、無意識の内にお腹をゆっくりと撫でていた。

「我愛羅君が望まないなら……」
 望まないなら「堕ろすことも考えている」何て言葉に出来なかった。
 サクラは我愛羅の過去を知っている。テマリやカンクロウから聞いて、理解しているつもりだ。
 我愛羅本人はその事に関しては話そうとしないから、サクラも聞くことはしないのだ。
 子供の頃の記憶は、我愛羅を苦しめるし悲しませる。
 サクラには想像するしか出来ないが、親から愛情を貰えなかったら。
 そう考えると、とても怖かった。苦しかった。想像だけで死にそうになった。

 だけどサクラは我愛羅ではない。
 想像するだけしか出来ないのだ。本人の傷がいかほどのものかサクラは結局のところ分からないのだ。
 生きてきた環境があまりにも違いすぎたから。
 だからこそ、互いに惹かれたのだろうけれども。

「……ごめん、先に帰ってるね」
「ああ……」
 気の利いた言葉一つ掛けられず、困ったように笑うサクラを見送るしか出来なかった。

 久しぶりに見た、表情。
 歯を食いしばるように、笑う表情。
 サクラのあの表情を見た時に我愛羅は泣きたくなったのを覚えている。
 人は笑っていても泣けるのか。
 綺麗な存在だった。
 我愛羅にとってサクラの存在自体が綺麗なものだった。
 護りたいと思い、護るべき存在だと感じたのだ。
 その存在を、今、自分が苦しめている事に正直腹正しい。ただ、それだけしかなかった。




 ホー、ホーと聞こえた砂漠では珍しい鳥の声。
 心此処にあらず。
 そんな心境で仕事をしていた我愛羅は何時に無く溜息ばかり吐いていた。
「我愛羅、入るよ」
 ノックも無しにガチャリと扉を開け姿を現したのは姉であるテマリ。
 この里で風影が居る執務室をノックなしで入るのはテマリとカンクロウ以外居ないのだ。
「なんだ、珍しい」
 夜も更け、里が静まり返る時間帯。
 こんな時間に訪ねてくるテマリに書類から顔を上げ我愛羅は問う。
「いや……ちょっとな。我愛羅、サクラと喧嘩でもしたのか」
 テマリの言葉に顔には出さなかったが、手に持っていた書類がくしゃりと音を立てた。
「いや……喧嘩と言うか」
 珍しく歯切れが悪い我愛羅にテマリは小さく息を吐く。
「どうした。サクラも元気が無かったが」
 夕飯を一緒に食べたサクラを思い出し、テマリは問う。
 我愛羅とサクラが喧嘩する事など日常茶飯事だがどうもいつもの喧嘩とは様子が違う気がした。

「……サクラが妊娠した」
 ぽつりと呟いた我愛羅の言葉にテマリは思わず目を見開いた。
「本当か」
「ああ、今日の昼サクラが言いにきた」
 手に持っていた書類を机に置き、文字を目で追った。

「そうか、おめでとう。我愛羅」

 その言葉に思わず顔を上げた。
「俺は……」
「何をそんなに悩んでるんだ」
 にやりとテマリが笑う。

「私達は、我愛羅に何もしてやれなかった」
 ただ、後悔をしていた。
 幼かった自分達は感情に任せて我愛羅を傷つける事しかしてこなかった。
 人柱力と言う事に脅え、恐怖し我愛羅が置かれている立場を見て見ぬふりをしてきた。
 自分達だけが親父の加護を受け知らぬふりをした。
 我愛羅が変わろうとしたから、私達も変わった。
 我愛羅が自分達に近づこうとしてくれたから私達も、ようやく一歩踏み出したのだ。

「今の我愛羅にはサクラが居る。一人じゃないだろう」
 あの子は何時だって真正面から私達を見てくる。
 誰に対してもそうだ。
 木の葉の人柱力のナルトにも、中忍試験の際サクラを傷つけた我愛羅にも、
 サクラを殺そうとしたサスケにも。
 誰に対しても変わらず、笑いかけるのだ。
「私達も、サクラも家族だろう」
 テマリの言葉に、サクラを思い出す。

 ガタリと椅子から立ち上がり、机の上で散乱していた書類を簡単に纏めた。
「今日は、もう帰る」
「そうかい……我愛羅」
 早々に執務室を後にし自宅に戻ろうとすればテマリに呼ばれた為、振り向いた。

「気をつけて帰れよ」
 トン、と軽く背中を押された。
「無論だ」
 一体誰に言っているのだと言いたくなるがコクリと頷いた。
 少しだけ、心も押してもらったような気がした。