小さな幸せの積み重ねが、いつの間にか当たり前になって。それが少しずつ音を立てて壊れていく。気がついた時にはもう、背後まで来ていたことに気が付かなかった。


 うあぁぁぁ……聞こえるのは子供の泣き声。真夜中の寝室でうつらうつらしていた意識を浮上させ慌てて起き上がり、隣のベビーベットでぐずぐず泣きじゃくると愛しいわが子に視線を落とす。

「あー……オムツ変えなきゃねー」

 小さな手足をバタバタ動かして不快感を前面に表しながら泣き叫んでいる。覗き込み、にこりと歯を見せて笑えば、なにが面白かったか不明だが、きゃっきゃと笑い出す。
 最近やっとハイハイが出来るようになった赤ん坊。彼は泣くのが仕事だ。仕方がない。十分に理解しているはずだった。今まで病院で何度だって赤ん坊と関わる機会があったし、それこそ妊娠中のお母さん達や、その後のケアだってしてきたつもりだったのだ。

(やっぱり、実際経験するのは全然違うわ……)

 どこかで、自分は大丈夫だと過信があったのかもしれない。医療現場で経験した知識があるから大丈夫だと。だけどそれは四六時中目が離せない赤ん坊と常に一緒に居るわけではないのだ。産後のたった数日。しかも数人で現場を対応、そのなかのたった数時間。それだけで、自分は大丈夫だと過信したことが、正直、恥かしかった。


 木の葉隠れの春野サクラが、砂隠れの五代目風影、我愛羅の元に嫁いで数年。やっと恵まれた子宝に喜んだのは記憶に新しい。
 とつきとおか。喜びは勿論、心配や不安もあり少し喧嘩もしたりした。それでも子供が生まれた時、我愛羅もサクラも泣いて喜んだ。

 大丈夫だと覚悟をしていたはずなのに。
サクラの心は少しずつ悲鳴を上げていた。
我愛羅が仕事から帰って来れないことがあるのもよくあること。最近は、子供が生まれたから祝辞と言われ大名や達に連れまわされる事もよくあるのだ。

 折角子供が生まれたのに、一緒にいる時間が少ないと我愛羅が嘆いたのを知っている。
姉はいた、兄はいた。だけど父との記憶は決していいものではない。母との記憶は生れ落ちた時から無い。
愛されていないと思っていた幼少期を過ごしていた我愛羅にとって家族は大切で、子供には自分がしてもらえなかったことを一緒にしたい。と笑っていた。


 だから我愛羅が帰ってきたときは笑って迎えようと決めていたのに。


「……サクラ」

 薄暗い部屋の中。
ぼんやりと子供を眺めていたサクラは我愛羅が帰宅した気配にすら気が付かなかった。

「ぁ……お帰りなさい」
「ただいま」

 表情は分かりにくいが、疲れている我愛羅にサクラは眉を下げて微笑んだ。

 オムツを替え、眠りについた子供を起こさぬよう、リビングに向かい、サクラは小さく声を出した。

「疲れたでしょう。今からお風呂用意するから待ってて。ご飯は食べてきたんでしょう」

 にこり。そう笑ったサクラを見下ろした我愛羅は眉間に皺を寄せてゆらりと瞳を揺らす。いったいどうしたのだろか。そう思ったサクラが眉を下げ、背の高い我愛羅を見上げれば我愛羅の口元が、少し横に引かれたのを理解する。

「大丈夫か、お前」

 ぜんぜんわらってないぞ。

 何を言っているんだろう。我愛羅の言葉が理解できず、サクラは小さく奥歯を噛む。
視線を彷徨わせるサクラに我愛羅は溜息を吐き、薄暗い部屋を見渡した。
 散乱した洗濯物や、流しに溜まっている食器の数々。仕事から帰ってきた我愛羅も片付けてはいるが追いつかない。

 挙句の果てに、やっと慣れてきた砂の大地で頼るものが居ないサクラを見ていて我愛羅が限界だった。

 医学のことや、個人的な悩みの相談にしても、サクラを頼ってくるものは比較的多い。
だが、サクラが頼れる人物は数少ないのだ。
我愛羅の実姉であるテマリはつい最近木の葉に嫁ぎ、サクラの親友である山中いのは今は身重の状態と聞く。

 それに加え、風影の我愛羅の妻である。国や他里のお偉いさんの相手。いまだに上役達から受ける誹謗中傷などもあるのを知っている。だが、我愛羅が排除したくてもしきれないのが現実。

「サクラ、もういい。乳母を雇おう」

 ずっと共に居るわけではない。だからこそサクラがこのまま疲れ果てて倒れてしまうのが、何よりも恐ろしかった。

 何も返答の無いサクラに視線を向ければ、薄暗い部屋の中、呆然と立ち尽くすサクラの瞳だけがじわりと滲んでいた。

「サク……」
「いや」

 擦れる声と拒絶の意思。大きなサクラの瞳から、今にも涙が零れ落ちそうだった。

「いやよ、絶対嫌……!」
 項垂れ、首を振るサクラの頭だけが我愛羅に見えた。
どうしてそこまで拒絶するのか。我愛羅には分からないし、サクラの心が見えてこない。

「実際に、今が無理な状況だろう。感情だけで動いて後で困るのは自分だぞ」

 視線を合わそうとしないサクラに、我愛羅が少しだけ深く溜息を吐いた瞬間だった。

「あなたには分からないわよ……!」

 ぼろりと涙を零したサクラの叫び。流れるサクラの涙を見て、我愛羅は目元を細め悲痛な表情を浮かべた。

「意地を張ってどうする……!」
「嫌、絶対嫌……!」

 断固拒否をするサクラに、我愛羅は眉間に皺を入れる。
そこまで拒否をされるとは思わなかった。確かに自分で産んだ子供だから自分で育てたいと思うのは理解する。だが現状そうは言ってられないし、なにより、実の親に育てられなかった自分を否定され、自分を育ててくれた叔父まで否定された気がして、我愛羅は心臓が痛くなる感覚を覚えた。

「だったらどうする、オレも中々帰ってこられないし、お前も仕事を引退したわけじゃないだろう! それに……!」

 少し大きな我愛羅の声が響く。
続けて言葉を紡ごうとした我愛羅の声は、赤ん坊の泣き声に遮られてしまった。

「うああぁぁあああんん!!」

 ギャーと叫ぶような鳴き声にサクラは顔を上げ、鳴き声の部屋まで駆けていく。

 サクラが子供をあやす声が聞こえると同時に、リビングの大きな窓を叩く音が聞こえ、我愛羅は歩いた。


「風影様、緊急です」
「……分かった。直ぐに行く」

 息を吐き、リビングの窓を叩いた暗部の忍と二、三言葉を交わした我愛羅は、別室で子供をあやすサクラに声を掛けた。

「サクラ、国境で怪しい動きがあったらしい。様子を見てくる」
「……わかったわ」

 未だ大声で泣きじゃくる子供を胸に抱えサクラは我愛羅に返答をする。

「気をつけて」

 リビングの窓からそのまま出て行ってしまった、我愛羅の背中をぼんやりと見つめたサクラは、窓際に立っていた。

 月夜の光がサクラを照らす。
やつれたサクラに、赤ん坊は腕を伸ばし母を求めた。

「……大丈夫、大丈夫」

 それは誰に言ったのか。
サクラの声が静かなリビングに小さく響いた。


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